たとえば筆使いを覚えるとか色彩感覚を身につけるとか、アートを目的語にした「アートを練習する」という意味ではなくて、アートを実践すること自体が「練習」であるという意味です。
では、いったい何のための練習か。
今の時代においてはあまり実感の湧かない「修行」という言葉が、私の考えを補足してくれます。
思想家で武道家の内田樹は、『修行論』の中で、武術の稽古を通して開発しようとしている潜在能力は、「実践的な意味での生き延びる力」であるとし、生き延びるためにもっとも重要な能力は、個人的な能力をどこまでも高めていくことではなく、「集団をひとつにまとめる力」であると述べています。
恐怖や暴力、利益誘導によって統合された集団はかんたんに瓦解するのに対して、他者と共生する技術や他者と同化する技術をもった集団は生き延びることができるとして、この考え方が現代においても有効であることを、あえて「修行」という言葉で表現しようとしています。
特に震災後の社会においては、来るべき事態(それが何かはわからないにしても)に向けて「集団をひとつにまとめていく練習」を積み重ねていくことの重要性については共感できるのではないでしょうか。そして私は、アートという実践もまたその役割を担えるものだと確信しています。
奇しくもタイトルでそのような考えを共有していた《カラダひとつプロジェクト》ですが、そこから生まれた3つの作品の荘厳な姿は、制作プロセスで「集団がひとつ」になったことを証明しているかのようでした。「集団をひとつにまとめる」というと多様性を排除していくようなイメージを抱く方がおられるかもしれませんが、作品を見ていただければ、それが均質化とは無縁の技術であることをお分かりいただけると思います。均質化ではなく、「多数の人間たちがそれぞれ主体的意思に基づいてふるまいながら、それがあたかも一個の身体の各部のように統一された動きをする」作品なのです。
「どうしてこんなにみんな何度もアトリエに来てくれるのだろうか」と思うほど多数のボランティアの方々が制作に参加してくれたのも、この現代における、報酬も処罰もない、そしてその意味が事後的にしかわからない練習/修行のあり方を心地よく感じてくださったのだと今では理解しています。
内田は「道場が『楽屋』で、生業の場が『現場』」だと言います。《カラダひとつ工房》という「楽屋」に集った方々が、これからどんなふうにこの体験を現場にフィードバックなさっていくのか、「練習」の成果を発揮なさっていくのか、楽しみにしていますし、私は「楽屋」の場所を変えながらも「練習」を続けていますので、またみなさんとどこかでご一緒できることを心待ちにしています。
2014年6月3日 西尾美也